初めての一歩

現役高校生。

現代の学校教育について現役高校生が思うこと:国語編

現代の学校教育について現役高校生が思うこと:国語編

 

 

 こんにちは、とろろです。今回は国語の中の小説というジャンルについて。

 

 と思ったので、書いてみました。

 

「なんで自分が思うように読んじゃいけないの?」

 

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 小説の問題でよくありますよね。「作者はどういう意図でここを書いたでしょう」とか「この時の主人公の気持ちを答えよ」とか。

 選択問題の場合、大抵あってるし、本文中に書いてあるじゃん、みたいな答えが二個くらい入ってて物の見事に間違えたりする。

 なんなら、「絶対この時主人公はこんなことを思ってないでしょう」なんて選択肢が答えだったり。

 

「いや、文章読んでどう受け取るかは私の自由だし、なんで自らの考えを否定して皆が皆同じ答えにたどり着かなきゃいけないの?」

 

 数学だったらきちんとした正解があって、根拠もある。一応、納得ができる。

 でも国語は?

 根拠がないです。なんなら作者が亡くなっていることが多い。その問題を作った方は思ったかもしれないけれど、自分は思わないような選択肢が正解なことって結構あるんです。

 なんでその問題を作った人の意図を読み解かなくてはいけないのか。作者が思ったことを、問題作成者が全て理解してるんですか?と問いたい。

 だって、おかしいですよね。国語の先生だって間違えたりするんですよ、国語って。きっぱりとした正解もないのに、あたかもそれだけが真理だと言うように答えを押し付けてくるんです。

 それに、もともと小説って、作者が伝えたいことがあって、それを自分なりに解釈しながら楽しむものですよね。

 

 

「だって、作者が『リンゴは果物だ』って主張してるのに、『リンゴは赤い』ってみんなが読み取るようになったら困るだろ?」

 

 

  困るのは、評論の場合ですよね。

「小説も著者が話書いたんだからちゃんと分かれ!」もっともです。

 でも思うんです。評論は、事実に対してあーだこーだ述べているから、作者の考えを正しく読み取れなくてはいけないのは良くわかる。それこそ、リンゴは果物であるって読み取れない人たちで溢れたら、日常生活に支障が出るでしょう。

 けれど、小説と評論って根本が違うと思う。

 評論は「俺はこう考えてるんだよ!分かってくれよ!なあなあ!」なんですよ。でも、小説って言うのは、社会風刺を含んでいるようなのを除けば、読んだ人が面白がるためだけに書かれているはずです。

 それこそ、解釈の余地は評論より何倍も大きい。例をだすと、

 

 桜がひらひらと空を舞った。今年は寒くて、遅咲きの桜になってしまったのに、こんなに綺麗に咲いてくれるなんて。自然と頬が緩み―――何故だか、頬に温かいものが伝った。

 

 って文があるとしますよね。

 ※もし自然と頬が緩み、の後に「そして」や「けれど」が入っていたら文章の意味が固まってしまうので、罫線で解釈の余地を大きくしてます。文章力の欠如。

 さて、みなさんはどう思いますか?何を思い浮かべましたか?

 人によって違うと思います。多いのはおそらく、この主人公は悲しいのかなって読み取った人。もっと言えば、余命が短いのかも、とか。桜って言ったら儚いイメージがありますから。

 けれど、もちろん、この文章でこの人は嬉しさで涙を流したのかも、と思ったっていい訳です。頬が緩んだっていうところでこの主人公が思い浮かべているのは何だろう。もしかして近いうち子どもが生まれそうなのかな、とかただ単純に桜というものに対して感動しているのかも、とか。

 深く深くまで考える方は、もしかしたら今日は主人公の息子の大学の卒業式で、子育ての終わりを想い、切なかったり、嬉しかったりっていう感慨に耽っているところ、なんてところまで想像するかもしれません。何を想像したっていい訳です。

 

 ほら、たった80文字でこんなに想像が広がる。

 小説は、これの何十倍の十万文字くらいに渡って、文脈を作り上げ、読者を楽しませようとするんですよね。だから作者の意図は伝わるのですが。

 

 でも、その上で思うわけです。

 別に作者が意図していないように読んだっていいじゃんって。好きに解釈していいじゃんって。

 

 さっきの例文で、「今日は宇宙からエイリアンが来て、地球人が皆殺しにされてしまう日。そんな中、主人公は最後の頼みだと言って、祖母が良く連れて行ってくれた公園の桜を見に来た」みたいなぶっ飛んだ話かもしれない。それでもいいじゃないですか。

 

 自分の文章でいろんなことを思ってくれる、なんて最高じゃないですか。たとえ大きく意図から外れていても。著者さん側からすれば、「こう思う」って書いた文章を読者さん自身で揉み解して、時間をかけて考えてくれた方が嬉しいでしょう。

 まあ全ての作家さんがそう思うわけでは無いでしょうが、例えば村上春樹さんの作品は解釈の余地が大きい作品だと勝手に思っています。

 あまり他の方の書評を読んだりしないので、一般的にどうなのかは知りません。けれど、村上春樹さんの作品を読んで「絶対に村上さんはこう言ってる!」ってならないと思うんですよね。

 村上さんの作品は共感できる部分が少なくて(私が幼いからかもしれません)、自分の経験則に従って読むことなんてできないです。

 もし、国語の模試に村上春樹さんが出てきたら阿鼻叫喚の地獄絵図ですね。だって、もう自分で解釈して読んでいくしかないじゃないですか。それを問題にされて、その問題を作った人の解釈を読み取るなんて不可能です。

 

 結局、特に勉強にもならない問題ばかりを出し、一体生徒の何を見ているんでしょうか。読解力を上げたいのなら、評論を読ませればいい。評論は作者の意図を正確に読み取ることが大切で、主人公もいないし、主人公との共感を楽しむものでもない。

 もし、情緒を付けたいのなら、道徳にのっているようなお話をずっとやっていればいい。

 倫理感が現代とかけ離れている明治文豪の小説を読ませる必要はないし、その時の登場人物の心情を聞くような問題は(実際本当に著者がそう意図して書いたかどうかわからないのだから)止めた方が良い。

 そして、試験をやるのではなく、ブレインストリーミングのように相手の意見を否定せずに互いの感想を言い合う機会を与えればいい。

 語彙の力を付けたいのなら、語彙の問題集を解かせたり、生徒に自作の小説を書かせればいい。書くのが一番の早道なので。(決してそれを批評するような授業はいけないし、これに関しては発想が飛躍しすぎている感がある)

 

 

 と、現役高校生は思います。

 

 

 ・最後に

 ここまで国語について批判をずっと投げていましたが、現在中高生のみなさん。私たちはまだしばらくこの地獄を耐え抜かなくてはいけません。じゃあ国語は適当にやろ!俺はこう思う!とはならないでくださいね。

 

tororodon.hatenablog.com

 に、小説の点数の取り方を紹介してるので、よろしければ。国語はちょっと良い点数とるだけで偏差値跳ねあがります。

 

 

 

 

 さて、ここから私が伝えたいことです。(読まなくて良いですが読んでほしいです)

 私は昔から読書が好きでした。勉強はできませんでしたが、本を読んで幸せな気持ちに浸るのが大好きでした。

 自分が面白いと思える本を読むのが大好きでした。

 もし、今子育て中のパパ・ママの中で、子どもに世間で良いと称賛されている本を与え、頭が良くなってほしいと難しい文豪の作品を渡すのは止めてあげてください。

 本に優劣を付けるのはおかしいことで、「これがいい」とか「これは教育に悪い」なんてありません。お子さんが楽しんで読める本を、あげてください。

 

tororodon.hatenablog.com

 

 さて、今日はここまで。読んでくださった方、ありがとうございました!

 

 

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